1017 バウハウス・アッシブ、ユダヤ博物館、ケーテ・コルヴィッツ美術館 Bauhaus Archiv, Judisches Museum, Kathe Kollwitz Museum,Berlin

ベルリンは紅葉真っ盛りである。東京の11月半ばの感じである。

既にデッサウやワイマールで25年前には見れなかったバウハウスに関係する展示を見て来たが今回あらためてバウハウス・アッシブを訪ねた。

撮影不可なので展示物の写真はない。

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展示内容に関して、またこの美術館が出来た経緯(グロピウスの設計)に関して思う所あるけれども省略。

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ベルリン、秋

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リベスキンドの設計で有名なユダヤ博物館はここベルリン博物館から入場し地下通路を通って行く事になる。

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この美術館は何と言うべきか、彫刻としての建築というか建築化した彫刻というべきか、少なくとも25年前はこのようなコンセプトの建築が実現できるとは思えなかった。思えばこの間日本でも(タイプは全然異なるにせよ)荒川周作の養老天命反天地のような建築化した彫刻とでもいうものが出来たのであった。

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荒川さんやリベスキンドに先立って、かつてヨーゼフ・ボイスによって社会彫刻というコンセプトが既に出されていたこと思い出す。

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肝心の展示内容について。興味深い点は多々あるものの若干の違和感もあった。それはユダヤミュージアムといいながら10世紀以降のドイツにおけるユダヤ人の歴史に限定していることであった。ユダヤ人のことを考えるならば少なくとも4000年からの歴史にざっとではあっても触れる必要があるのではないかと。
また第二次大戦中の悲惨な歴史に関して驚く程あっさりした展示であった。(それは下の写真にあるリベスキンドの設計した地下が代替しているという考えもあるかもしれないが)考え過ぎかもしれないがある種の政治的配慮があったのかとも思った。
あくまでも現時点での感想ですが。


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リベスキンドによるホロコーストの象徴。人の顔の形をした無数の鉄板。

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最後にケーテ・コルヴィッツの美術館に行く事ができた。
コルヴィッツは学生時代から好きで尊敬していた作家である。彼女の作品、生き方も含めて深く感動。

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美術館中庭。

1016 ザグレブからベルリンへ

ザグレブ空港からベルリンへ向かう。

前日は2〜3時間しか眠れず、少し意識もうろう。
ベルリンの宿(ツォー駅そば)に4時頃到着。荷物をおいて散策。4時過ぎにすでに町は暗い。

ベルリンは25年ぶりの訪問となる(当時は西ベルリン)。ヴェンダースが「ベルリン天使の詩」を撮影した年であった。あのサーカス小屋のあったクロツベルクを歩き回った記憶がある。(映画が公開されたのはその2〜3年後であったか)
今回は旧東側であるザグレブからの入国なのでショーネンブルグ空港から各駅停車の電車に乗ってベルリン入りをした。
25年前、たしか一日50マルクを使う事を条件に東側の町を半日観光したのだが、今回の印象とは全く異なったものだった。
その他思う所あり。

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ザグレブ空港待合室

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以下ベルリン

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1015 ザグレブのアヴァンギャルド

クロアチアの首都ザグレブに早朝のバスで向かう。

5月のトルコ旅行の前に寄った「例の」画廊にまず訪ねる。
今回は1970年代旧ユーゴスラビアの前衛芸術家たちのドキュメントが展示されていた。
ここで来意を告げると、いろいろ細かい経緯はあったのだが、デヤン・クリスィチ(Dejan Krsic)氏(多分クロアチアで有名なデザイナー)という人に近くのカフェで会う事になる。一緒にいた美術史家の女性(名前を忘れた)とも話をする。ユーゴスラヴィア時代のアヴァンギャルド研究についていろいろ教えてもらう。(詳細省略)また、資料になる本を探すためにクリスィチさんは私たちを本屋に連れて行ってくれる。(結局三件はしごしました。)
その後HDLU(ザグレブのクロアチア芸術協会)というクロアチア現代美術で最も活発な活動をしている美術館に、ディレクターのフランチェスキ氏を訪ねる。(ソボルさんマイーダさんの紹介)
ここで偶然ニューヨークのアーティスト、ダリオさん(来年ここHDLUで個展をする予定)とそのガールフレンドで同じくニューヨーク在住の日本人女性アーティストの桐谷さんという方がいて、一緒に話をしたのだが成り行き上、結局厚かましくも彼女に通訳のようなことをさせてしまった。
フランチェスキさんは興味深い人で僕とほぼ同世代だと思うがクロアチアの現代美術において中心的な活動をしている人であった。今年のベネツイア建築ビエンナーレ、クロアチア部門のキュレーターもしている。
ここでは僕の興味のあるユーゴスラヴィア・アヴァンギャルドに関する情報を得る事ができた。
詳述するときりがないので省略します。11月の前半にまた来る必要ができた。
HDLUという美術館の建物も数奇な運命をもったもので、それだけで一冊の書物が発行されている。旅のあと落ち着いたら触れたいと思う。
今日は沢山の人にあったにもかかわらず、残念ながら写真を撮り忘れてしまった。それだけ話に忙しかったということだ。

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HDLU(HRVATSKO DRUSTVO LIKOVNIH UMJETNIKA /CROATIAN ASSOCIATION OF ARTISTS)

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HDLU内部

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1014 いつもの旅の儀式

明日から短い旅に出るのでいつものように準備に追われる。

たいしたことではないけど、荷造りは当たり前として
いつもの大掃除をします。

考えてみるとこれは何なんだろうと思います。
この長旅で東京の家を出る時もそうだけど、こちらに来ても、ここを拠点に短い旅に出る時も同じ心境になる。深く考えたことはなかったけれど
旅先で何かあっても恥ずかしくないようにというか、後で人様に迷惑をかけたくないというか、何と言うか。
一種の旅の覚悟とでもいうのでしょうか。

儀式の様に暗黙のうちに夫婦で大掃除をして家をきれいにしてでかけます。

1013 Indian Summer

15日からザグレブーベルリンの1週間程の旅が始まるのでその準備で少し慌ただしくなる。

町に行ってザグレブ行きのバスの切符を買ったり、買い物など。
町中のいつものカフェ(かつてチトー大統領のシェフをやっていた人が経営しているソボルさんお気に入りの)でマイーダさん、ソボルさんと待ち合わせし、久しぶり(1ヶ月ぶりか)にお茶をする。
こちらの旅の感想を巡っての話なのだが、ヨーロッパ2000年の主にキリスト教の変遷からオランダやら各国の国民性の話まで広がり全く大変な話になる。もちろんとても面白い話になるのだが自分の英語力がもどかしくもある。
ソボルさん達はもちろん僕の英語力にあわせて親切に話してくれますけど。
バチカンは異端としたのに何故あんなにギリシアやローマ、エジプトのお宝を抱え込んでいるんだ?とか何でヨーロッパは偉大なローマを忘却したのか?とか僕の乱暴な質問に対して、ソボルさん、マイーダさんはさすがに宗教家、とても鋭い分析で答えてくれる。(ここに書き出すときりがないので省略しますが)
印象深いソボルさんの言葉。
「ヨーロッパはこの2000年の間、日本が経験した明治維新のような激しい変革(あるいは歴史の断絶)を少なくとも20回以上繰り返してきたのです。テラヤマサンそれが理解できますか?」
…他にもあるけど刺激的すぎてやめます。
がソボルさんの比喩がとにかく面白い。僕がオランダの印象を当たり障りなくインターナショナルな印象を受けたと言ったことに対するソボルさんの意見。オランダ人の考え方は「臨済禅のようにlike a rinzaizen」strict(精密、厳格)だが、「臨済禅と違って」オランダ人は大都市のinternationalな印象とは裏腹に実は本質的には保守的なのだ、などという言い方なのだ。
確か僕の家は臨済宗だがそれが仏教の中でどれほど厳格であるかを残念ながら僕は知らないのだけれど。

僕らが旅していた間ここリエカは5度から15度ほどで大変寒かったらしい。
僕らが戻ってからインディアンサマーになったとのこと。

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ソボルさん家の庭でできたPOMENGRANATE。とても酸っぱい。

そいえば昨日の深夜テレビで「復讐するは我にあり」1979年をやっていて観た。
ここクロアチアに来て初めての日本映画である。九州弁や三河弁がことのほか新鮮である。(6月頃妻は小津安二郎の「晩春」1949年を観ているが朝早くだったので僕は観れなかった)緒形拳が亡くなっての追悼上映かどうかは分からない。監督の今村昌平は松竹の小津組にいたのだが反発して日活に移ったのだがこの映画は松竹の配給。緒方も凄いがほかの役者も凄い。三國連太郎、小川真由美、清川虹子、ミヤコ蝶々、倍賞美津子、加藤嘉など。映画よりも配役が凄すぎる。


1012 欠落の発見。マレーヴィチ、アムス市立美術館覚え書き。

アムステルダム(オランダ)ではこれまで書いて来たようにそれこそ気持ちが悪くなる程(?)たくさんの素晴らしいものを見てきたにもかかわらず、ずっと釈然としないというか引っかかるものがあった。

旅の途中ではその理由は当然分かるはずもなく、ただ単にもやもやした感覚だけが残っていて、それをこちらに戻ってからもずっと引きずっていた。(それは10月9日に書いたオランダ覚え書きにもある。

その理由が何となく分かったのはゴッホ美術館で買ったマーレヴィチの図録を読んでいてであった。
私が9月30日に見たマレーヴィチの素晴らしいタブロー群もウエルクマン(H.N.Werkmanヴェルクマン?)の作品もゴッホ美術館の収蔵ではなくアムステルダム市立美術館の収蔵品であった。この市立美術館(Stedelijk Museum of Modern Art)は2008年までの予定で改装中で、その間一部を中央郵便局に移転展示しており、しかも私たちが訪れた前日になんとその中央郵便局も工事で閉鎖され、結局見る事のできなかった美術館なのである。
https://wst.esporre.net/terayamawp/wp-content/uploads/old/2008/10/0930rembrandtvermeerghghmalevi.php
https://wst.esporre.net/terayamawp/wp-content/uploads/old/2008/10/1001-1.php

推測するにおそらくゴッホ美術館が展示場所のない市立美術館に場所を提供していたのだろう。
何故、アムステルダムにこれだけまとまったマレーヴィチがあるかというと上に記した図録、「1878-1935 Kazimir Malevich─Drawings from the collection of the kharzhiev-Chaga Art Foundation」によれば、革命後10年、国内での保守派との政治闘争に敗れた(本当はそんなに単純ではないがあえてそう書きます)マレーヴィチが1927年にワルシャワとベルリンで行なった展覧会の作品がその後の第二次大戦などの混乱でロシアに戻らず、それが(まるごと)ここ市立美術館にまとまって残っている理由だったのだ。
またそれに加えて、ロシアのマヤコフスキー研究家でマレーヴィチと直接つきあい、彼の重要なドローイングの多くを個人的に所持していたN.I.カルジエフ(発音はよくわかりませんKHARDZHIEV1903-1996)が、ペレストロイカの後1993年にアムステルダム市立美術に寄贈したものも加えられたのだった。
これにもドラマがあって90歳のカルジエフはそのドローイングの半分は持って来れたのだが、残りはロシアの空港で警察に差し押さえられ現在はモスクワにある。その後カルジエフはロシアに戻れず奥さんとともにアムステルダムで93歳で客死しているのだ。

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マレーヴィチのドローイング

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マレーヴィチのドローイングを見ていると自分の手で追体験(模写)したくなる程魅力的だ。
あのリベスキンドの初期のドローイングもリシツキーの影響というよりはむしろやっぱりマレーヴィチかと…。
この実感は僕にとって少なからず衝撃であった。

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マレーヴィチとカルジエフ。1933年。

結局、ここで言いたかったのはオランダがデザインのモダニズムに関する研究にとって最も重要な場所だと僕が感じていたのは、基本的にこの市立美術館によっているということなのだった。
これはおそらくこの美術館に歴史的に優れたキュレーターが何人もいる(いた)ということを示しているのだろう。
今回残念ながら僕はそれと出会う機会を逸してしまったのだ。
「せっかくオランダに来て、肝心のモダン・グラフィックのコアがないのは何故だろう?こんなはずじゃあないだろう」と感じたわけがやっとわかったような気がしている。もやもやと苛々の原因。

もちろん旅の出会いは時の運。その事自体は理由がわかった以上そんなにくやしいとは思っていない。もやもやが晴れたのでむしろすっきりしました。
帰国したら図書館でこの美術館(とハーグの市立美術館)が出した出版物を系統立ててちゃんと読んで、必要ならばそれから改めてまた来ればよいと思う。少なくとも3〜4年はかかるだろう。そのころにはいくらなんでも改装も終わっているはずだ。
新たに宿題が加えられました。

1011 旅の質感

終日、資料の読書と長旅後半の計画に追われる。

夏は9時頃だった日没が今では6時である。これが4時頃までになっていくのだと思うと
ヨーロッパの冬は暗そうだ。これまで経験して来た春、夏とは全く印象が異なるのだろうと思う。


前から聞いてはいたものの、ヨーロッパ圏内は早めに予約をすると航空券が(列車などに比べて)大変安く手に入る事がやっと後半になって分かって来たし、ビビらずにネットで予約する度胸もついてきました。


やっとアバウトながら以下の旅程が決まる。
10月は後半に1週間ほど、ザグレブ、ベルリンへ。
10月の終わりから11月のあたまにクロアチア国内のドブロブニク、ザグレブへ。
11月の半ばにパリ、ウイーンを経由し20日間弱エジプト(シナイ半島)へ。
12月半ば過ぎに再びドイツ(ドュッセルドルフ、マインツ)へ1週間ほど。
1月前半に南イタリアとシチリアに約2週間。
2月の前半にクロアチアの拠点をたたみ、ポルトガル、モロッコ、スペインをまわる。
3月10日から20日までフランス(パリ)、その後ニューヨーク(約10日)を経て帰国の予定となる。

その他リエカ滞在中に出来る限り時を見計らって近隣のスロヴェニア、クロアチア国内のショートトリップ(バス)もしたいと考えている。
このあたりの冬の寒さがどのようなものか未知なのでどうなるかわからないけれども。

多分、11月のエジプトが冬とはいえ後半最大のハードな旅になりそうなのと、
ここリエカの拠点を引き払って後の放浪の50日間がどうなることやら不安ではある。

これまでの前半は全てが手探りだったし、様々なカルチャーショックもあったがその分、多分に新鮮でもあった。
後半は同じ旅でもその経験の受け止め方が変わって来るのではないかという予感がある。
うまく言えないが善かれ悪しかれ旅の質感が変わって来るのではないかと。


1010 リエカの秋

終日次の旅の準備。

でも家に籠ってばかりは何なので散歩しました。

テレビのニュースを見ていると同じクロアチアでも南のドブロブニクなどではまだ海水浴をしているのです。
しかしここトルサットはもう秋の気配です。
歩くと上着を脱ぎたくなるくらいの気温ですが。

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1009 引きこもり。オランダ覚え書き。

終日、家にひきこもり調べもの、読書、次の計画などに集中。


ここリエカの家は静かで気持ちよく引きこもりには最高です。
申し訳ないですが家事はなにもしていません。
感謝の気持ちを時々忘れるのでカミサンから顰蹙を買っているのが問題なくらいの
静かな日々です。

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画像が荒くて申し訳ない。1926年シュレーダー邸を訪れた左から建築家のマルト・スタム、リートフェルト、エル・リシツキー。リートフェルト38歳、老けて見えるが(急に頭が禿げたので)リシツキーは36歳。リシツキーの奥さんのゾフィーの書いた伝記では世界恐慌、ファシズムの前のアヴァンギャルドが幸福だった頃のワンシーンである。彼らはここで一般庶民の住宅の未来を終わる事なく語り合ったとある。

オランダ覚え書き。
今回のオランダではレンブラント、フェルメール、ゴッホ、エッシャー、モンドリアン、リートフェルトと(見落としも随分あるとは思うが)それなりに見れたのは良かったと思う。
そう、加えてウエルクマンやマレーヴィチなど思わぬ出会いもあったし。

ただ心残りがいくつかあった。
気をつけて(意識しながら)美術館や町の画廊などを見たつもりではあったが、戦後の優れたオランダのグラフィック・デザインがほとんど見れなかったこと。

リートフェルトは思った以上に評価されていたがデ・スティルのドゥースブルクがほとんど見れなかったこと。

そして最も大きな欠落はゲルト・アルンツがどこにもなかったことであった。
かつてゲルト・アルンツの大回顧展を行ったのはハーグの市立美術館である(今回モンドリアンを見たところ)。ここではモンドリアン以外にはイズラエルという画家の大展覧会をやっていてモダンデザインに関する展示は全くと言っていい程なかった。
まあ、こちらにも学芸員にわざわざ何故か質問する程の準備もしてなかったのでしょうがないが…。
オランダにいればなにか情報が入ると思っていたのだが…。
アルンツに関しては特に心残りではある。


1008 旅のつづきについて。ミラノのグリーナウエイ覚え書き。

終日家にこもり旅でたまった資料の整理。

旅の途中購入した書籍や、ゆっくり目を通せなかった資料に目を通す。
辞書を引きながら、またインターネットで確認しながらの作業なのでなかなかはかどらない。

しかし今回はあまりゆっくり振り返っている時間がない。
次の旅の当面の準備もあるけれど、ほとんどちゃんと決めてなかった後半の旅の見取り図全体を再度描かなければならないのだ。

もちろん、誰かが言ったように旅はちゃんと戻らなければ旅とは言えないので出発前に大きなアウトラインは作って来た。
これまでは若干の修正(例えば8月は少し休んだり、当初思ったよりイタリア滞在が少なくて北ヨーロッパが少し増えたり)はあったもののほぼ計画通りであった。
しかし後半についてはあまり考えてなかったのだ。

これは出発前にそれだけの準備をする時間やゆとりが全くなかったということにもよるのだが、半分は意識的に「行ってみなけりゃどうなるか分からんだろう。」という気持ちもあったのだ。
決めた事をそのままトレースするほうがどっかおかしいんじゃないかという気持ちがあった。

実際、見たり、感じたりするこということは、何かがその都度、自分に刻印され自分の感覚の何かが変化し続けているということだ。実感として。
これは当たり前と言えば当たり前のことではある。しかしこれまでの人生で少なくともこんな短期間にこれ程の量の情報を浴びた経験がないので圧倒されているということなのだと思う。
それで旅先で「やばい」と感じて思わず受信を遮断しよう(インプットを減らそう)とする自分がいるのだ。そしてそれを見ているもう一人の自分が「なんちゅうやっちゃ、お前は」と苛立っているのだ。

ここ最近、みっともないとは思うのだが「苦しい」だの「混乱している」だの弱音を吐いているのはそういうことです。
意外と弱い私をお許し下さい。

この迷いも旅に含まれた大事な要素なんだとここ数日、少しづつ開き直るようになってはいるものの。

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9月7日。ミラノで見たグリーナウエイのインスタレーションの様子。画像が小さくて見にくいですが。正面に見えるのが再現されたテーブルです。
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