1207 エジプト覚え書き2

昨日に続き読書と資料の整理。


以下エジプト覚え書きの2。トラブル編
このブログを読んでいただいている方にはお分かりのことと思うが今回のエジプトの旅では種々問題が発生し大変であった。細かい経緯を書いているわけではないのでなんのこっちゃ分からんという部分もあったと思う。
改めてここで愚痴るつもりはないのだが、記録に留めておきたいことのみ記す。
以下、カイロの私の旅行エージェントになったサイードとトラブルの後に話したことである。
エジプトでは独立した人間はお金持ちなのである。例えばダハブにサイードと行ったとき私たちが昼食をとったレストランはサイードの昔からの友人が経営しているところであった。彼の説明によればその友人は複数のレストランと安ホテルを経営しているのだが、売り上げは一日に200万円以上であるという。しかしそこで働く従業員の一ヶ月の給料は1万円以下なのだという。
つまりオーナーは月に6000万円稼いで、その人件費は月2−30万円で済ませると。
日本ではありえないことだがサイードにいわせればこれがエジプトでは普通なのだと。つまり独立したオーナーはとても金持ち。しかしその周辺で働く人々は極端に貧乏なのである。
同じ事が旅行エージェントでも起こる。
カイロから客の為に地方の旅行エージェントに委託しても、そこがピンハネをし、実際のエージェントにはわずかな金しかまわらない。そうすると彼らは勝手に予定やホテルを変更し小金を稼ごうとする。
それでトラブルが絶えないのだと。エジプト人であるサイード自身が「エジプト人は馬鹿なんです」という。
そんなことをしたら結局は信用を失う。だから自分もそんなことをしたエージェントをクビにする。そして別のエージェントに替える。(代わりはいくらでもいるから)最初はまじめにやってくれる。しかし1〜2年もすれば必ずと言っていい程同じ問題を起こす。また替える。その繰り返しなのだと。結局長続きしない。
サイードに言わせれば「だから馬鹿なんだと」
そのような状況には僕らも実際何度か出会ったので実感として理解できたのだが、本当にそれが全ての原因なのかどうかは分からない。

話はかなり変わるが私が印象深く感じたのは現代のエジプト人が古代エジプトの遺産を特にありがたく感じてないように思われたことだ。イスラム教徒からみれば古代エジプトはとんでもない異教徒であり、全く否定すべき対象なのだ。
少なくともそこには尊敬や畏怖の感情はないようであった。単なる観光、お金儲けとしか考えてないようであった。
その事が私には最も信じ難いことであった。

以下妻の写真機からー旅の断片その4
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1206 クロアチアのきしみ

食料がなくなったし今日は土曜日なので妻とあわてて食料の買い出しにいつものスーパーへ。

雨が止んでくれたのは幸いであった。
あとは一月にザグレブとここリエカの大学でレクチャーをすることになったので以前ブキッチ先生にもらったクロアチアデザイン史の本を必死で読んでいる。
まあ典型的な泥縄なんですけど。

昨日書き忘れたことであるが、我が家を訪ねてくれたマイーダさんはこれから町でデモに参加するということであった。嵐模様であったにもかかわらず昨日はクロアチアの全ての主要都市では一般市民による大デモがあったのだ。
マイーダさんの話によれば今回の世界的な経済恐慌による景気後退とクロアチア政府の政治的経済的政策に対する異議申し立て、もう一つは以前にも書いたがマフィアがらみの一連の政治的なスキャンダルに対する抗議行動でもあるらしい。
このスキャンダル(ジャーナリスト殺害事件)には現在のクロアチアの政治中枢とイタリアのマフィアと財閥、クロアチアの軍、新興財閥などがからんだ複雑なものがあるらしい。
当面ユーロによる政治的外圧しかクロアチアの現在の歪んだ状況を正せないのは情けないことだとマイーダさんは言っていた。(充分理解できたわけではないがそのように聞こえた)
そしてここヨーロッパの片隅でアメリカ新大統領オバマの演説を読んだ。
美しい文言の羅列ではあるがあれは単なるレトリックにしか聞こえない。アメリカ人だけが陶酔しているのではないか。
世界はもっと複雑できしんでいると実感する。
おそらくもし日本にいればこのようなリアリティはなかったのだろうと思うけれど。

以下妻の写真機からー旅の断片その3

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1205 エジプト覚え書き

終日雨風。冬の嵐のようである。

終日メール、旅の片付けなど。
昼間マイーダさんが訪ねて来てくれる。
1月のリエカ美術大学訪問について相談。
妻は大分回復した模様。
体調が思わしくないにもかかわらず食事を作ってくれている。
このことによって二人とも少しずつ体調が良くなっていることは間違いない。
僕のお腹の調子も大分良くなって来ました。

以下エジプト覚え書きを少し。
エジプトやヨルダンで見たものを自分の中で消化するには今は早すぎて無理のようだ。
改めて調べたいこと等も山積しているからだ。
それはともかくとして、少なくとも言えることは今回かなり無理をしたけれどシナイ半島、ヨルダンまで足を伸ばせたことは結果的に良かった。
シナイ半島のセントカトリーナの蔵書が見れたことについては既に触れたが、それよりもヨルダンを含めあのあたりの空間、風土に少しでも接することができたことが大きい。
以前にも少し触れたが今回の旅全体で本当は今のイスラエル、イラン、イラクまで足を伸ばしたかったのだ。つまり僕にはバビロニアまで行って楔形文字発祥の地点に立つ必要があったのだ。旅の始めから時間と安全の問題でそれは断念したのであるが、今回中東地域に少しでも触れることができたのは自分の中の世界地図の上では貴重なものとなった。5月に行ったトルコ東部のハットゥシャシュの楔形文字でかなりの関係がつかめたというのもあった。
またラムセス二世とハットゥシャシュ王国の戦争とその後の世界初の国家間平和条約という3200年前に行われたダイナミックな交換も実感することができた。
現代人の想像力を超えて古代の文化交流はダイナミックなものなのだ。

単純に宗教のせいに帰するつもりはないが現在のイスラム圏を旅する大変さはエジプトでいやという程味合わされたけれども。

以下妻の写真機からー旅の断片その2

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1204 リエカに戻って

妻は風邪で寝たり起きたり。

リエカは終日雨で寒い。

荷物の片付けの前にこの間旅先で送れなかったメール、特に緊急を要するものから優先的に送らねばならない。
あれやこれや、旅の疲れが残っているせいか遅々として進まない。
次の12月後半の旅の準備にも手をつける必要がある。
夜になってやっと随分遅れたブログの更新。

妻の写真機が9月になってレンズエラーで壊れてしまい、僕の1台だけでは不安だということで今回ウイーンで新たに購入した。
以下妻の写真機からー旅の断片その1

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1203 いつものルートでリエカへ。

10時のヴェネツイア、サンタ・ルチア駅発トリエステ行きの電車に乗る。

トリエステでバスに乗り換え、何事もなくリエカへ。

11月11日パリ行きに始まった今回の約3週間のショートトリップも何とか無事帰還することができた。

私たちの為にマイーダさんが暖房を入れておいてくれたが、思った以上にリエカの夜は底冷えがする。

妻は風邪気味で寝込む。

恐らく旅の心労と疲労のせいであろう。


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朝ホテルの中庭にて。


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サンタルチア駅前




1202 水没する(?)ヴェネツイア

今日は空港傍のホテルからバスでヴェネツイアのサンタ・ルチア駅近くの宿に移動し一泊する予定であった。

朝テレビのニュースを見ているとヴェネツイアが大浸水している様子が映し出されたいた。

建物のグランドフロア(一階)部分まで完全に水浸しだったのでそもそもホテルがやっているかどうか、大丈夫かと不安になる。

とにかく行って確認するしかない。

私たちがサンタ・ルチア駅近くのローマ広場に着いた10時頃にはかなり水も引いていた。

サンマルコ広場にはなお水が残っていたが駅前は何とか普通に歩ける状態となっていた。

移動したホテルは外見はこじんまりしているが、中に入ると堂々としたヴェネツイアンスタイルで、とても気持ちの良いホテルであった(今はオフシーズンなのでこのようなホテルに泊まることができるのだが)。

荷物をおいてチェックインまで時間があったのでバポレットでムラーノ島まで行ってみる。今年は夏以来二度目である。

曇り空のせいもあって、もう3時には暗くなり始め、4時には夕暮れる。

暗くなってから二つの教会を訪ねる。

スクオーラ・ダルマータ・サン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ。スキアヴォーニはダルマチアのことでかつてのクロアチア人の為の教会である。ここにはカルパッチョの連作がある。暗くて見にくいのが難点であるが素晴らしかった。

もうひとつはサンティッシマ・ジョバンニ・エ・パオロ教会。ここはヴェネツイアの中でもかなり壮麗な教会で、ベッリーニの多翼祭壇画、ヴェロネーゼの絵画連作、ヴェロッキオの彫刻等傑作がある。

エジプトのムスリムからカトリックの世界へ。

死海とヴェネツイア、二つの場所を行き来したことに感慨を感じながら…。


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道に打ち寄せる海水。


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海水が残るサン・マルコ広場


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1201 ヨーロッパへ

午後4時のカイロ発の飛行機でウイーンを経由して夜9時、ヴェネツイアに到着。

タクシーで空港近くのホテルへ。

飛行機、タクシー、ホテルと当たり前のことが当たり前にスムーズにいくことにこんなに感動するとは…!。


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1130 カイロ最後の日

昨日というか日付が替わった今日の夜中にターバを出てカイロには朝の6時過ぎに到着。

車中は異常に寒くほとんど眠れず。途中トラックの複数の追突事故で少し渋滞をした。

宿で眠る。

ヨルダンの旅は短いものの大変素晴らしいものとなった。にもかかわらずやはり旅の最後の最後でだめ押しのようなエジプト的被害にあってしまった。

全く残念であった。

昼間起きたが、外には出ず宿で記録の整理などをする。

明日はエジプト脱出?である。

旅を始めて今日で240日目、私たちのこの長旅全体の3分の2が終わる。

中盤最後の山場であったエジプト行は波乱含みであったが、なんとか無事に終了しそうである。


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1129 パレスチナを見下ろしながら死海へ。

ホテルにタクシードライバーで案内のジャミールが訪ねて来る。

朝8時半に宿を出て北上、死海を目指す。

ここヨルダンは南北に長い国境をイスラエルと接している。国民の多くはかつてパレスチナ(現イスラエル)に住んでいた人々である。この国境線上に死海もある。

またペトラから死海に向かう岩山が連なるヨルダン高原の途中にはネボ山がある。これはユダヤ民族を率いてエジプトを脱出し、シナイ山で十戒を授かりシナイ半島を横断し40年かかって約束の地カナン(現エルサレム)を目指し、それを目前にしたモーゼが120才で亡くなったといわれる場所である。

この死海までのドライブは視覚的にも大変変化に富み、ペトラのあった高地からはるか向こうにイスラエルの大地を見下ろす地点など忘れられない光景であった。

ヨルダンとイスラエルが上のような地理的、歴史的関係なので行ってみるまではさぞや危険な場所かと思っていた。しかしヨルダンとイスラエルは1994年に平和条約をかわして以降は基本的に平和な関係が続いているらしい。ヨルダンは王国でいわゆるイスラム原理主義ではない。ジャミールは石油もないし貧乏な何もない国と言っていたが天然ガスや鉱物は豊富にあるらしく、また国民性というか僕らが接した多くのヨルダン人はこう言っては何だがエジプトの観光客ずれした人々よりもはるかに好ましい印象を受けた。

5時間ドライブで死海に到着。ヨルダン川沿いの大平原+砂漠(低地)地帯に降りる。この一帯は農業が盛んだという。

死海で2時間程過ごした後それこそ国境沿いの道にそって南下、再びアカバの港を目指す。

ジャミールから途中温泉があるから寄るか?と誘われたが温泉は日本に帰ってからのお楽しみなので断って、そのかわり途中途中好きな所で止まって写真を撮りたいと頼んだ。

夜無事にフェリーでアカバからターバまで到着するもこの旅最後のトラブルが待ち構えていた。

本当ならば港に私たちをカイロまでダイレクトに連れて行ってくれる出迎えが待っているはずであった。

しかしそれが現れず、遅れて現れたドライバーが私たちをヌエバに連れて行きそこから乗り換えてカイロに行ってもらうという。全く遠回りになるのでそれはおかしいと抗議する。

そこからの経緯詳細はばかばかしいので省略するが私たちは3台のミニバスに乗ったり降りたりさせられたあげく夜の何もない港で結局3時間待たされ夜中の12時になって予定通りのルートでカイロに向かうことになったのだった。

あまりにもひどいので私が最後は日本語で怒鳴りまくったことは言うまでもない。


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ホテルから見下ろすペトラ渓谷。


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ペトラの町


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廃墟になっている昔の石と土でできた家屋。


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死海とその向こうに広がる「約束の地」パレスチナを見下ろす。


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かつて3000年以上前にモーゼ達も同じ光景を見たのだろうか。


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低地に降りる。


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死海dead sea。


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死海で泳いでみた。不思議な体験であった。


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中央高い山の右がネボ山。


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アカバの港町


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1128 ヨルダン上陸。ペトラ遺跡へ

朝ダハブの宿にドライバーが迎えに来て1時間程でターバの港へ到着。

ここはアカバ湾を囲むようにエジプト、イスラエル、ヨルダン、サウジアラビアの国境がほとんど接する形で集中しているところである。陸路をイスラエルを通っていけば簡単なのだが、おそらく宗教的、政治的な理由からイスラエルを経由せずにフェリーでヨルダンのアカバ港へ行くルートである。目で見える対岸のアカバまで約40分の航行である。

船上で出入国審査を受けヨルダンに入国。

ヨルダンは50万年前(!)から人類が住み着き1万年前に人類最古の農業が営まれたといわれる場所である。

アカバからツアーバスでヨルダン高原を北上する。周りの客はほとんどがペトラ遺跡を見ての日帰りらしく軽装である。

2時間かけてペトラ遺跡に到着。

ペトラはギリシア語で岩を意味する。ここは紅海に近く砂漠を行き来するキャラバンの中継地点であり昔から中東における要衝の地であった。このあたりには3200年前から人が住み着き、紀元前1世紀には古代ナバテア人の都市として栄えていた。その後ローマの属州となっている。


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ターバ、フェリー乗り場


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ヨルダン、アカバ港。アカバ湾の向こうは右手がイスラエルで左はエジプトのターバ。


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ヨルダン高原を走る。


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霧。まるでストレンジャーザンパラダイス(ジャームッシュ)のような…。


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以下ペトラ遺跡。


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石畳を敷設したのは当然ローマ人であろう。


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朽ちかけてはいるが印象深い彫刻。


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岩盤をくり抜いてこういう巨大な円形劇場を造ったのも後から来たローマ人だと思う。


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